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病院で診査結果を聞いた。
予想はしていたが、やはりいざ告知されると気持ちが沈む。
再生医療手術で治癒は可能だというが、費用を聞いて諦めた。
国民健康保険制度があった時代ならいざ知らず、
保険会社の高額な掛金を払えない私のような貧乏人には縁のない話だ。
これでいいんだ。
家族もいない自分がこれ以上生き永らえても仕様がない。
そう自らに言い聞かせながらJR中央線で家路についた。
気を紛らわせようと車内の大型モニタでニュースを観ていると、
カタールによるサウジアラビア買収交渉のニュースに続いて、
女性アナウンサーが懐かしい名前を口にした。
「本日から1ヶ月間にわたり、中野のハロプロ東京劇場において〈モーニング娘。誕生50周年記念特別公演〉が行われます。現場の大竹さん?」
お祖父さんに似て騒がしいレポーターが、
あの懐かしい劇場前の広場で生中継レポートを始めた。
中野サンプラザ跡地に建てられた立派な専用劇場だ。
そう、私は若い頃モーニング娘。の熱狂的なファンだった。
結成当初からコンサートやイベントに通い、
途中心が離れた時期もあったが、結局は戻っていった。
そんな私も初代プロデューサーが引退した時点でファンを卒業した。
別に二代目が嫌いだったわけではないが、
歳のせいなのか新しい方針に馴染めなかったのだ。
それからはマスメディアを通じて動向を知る程度になり、
かつてあれほど私の人生を占有していた「娘。」は、
今ではまるで幻だったように思える程だ。
3年前の現プロデューサーの就任もニュースで目にしたに過ぎない。
初の外国人プロデューサーということで世間的な注目を集めたものの、
私の関心は戻らなかった。
「なお、初代プロデューサーで、これまでの舞台芸術への貢献が認められて紫綬褒章授章が先日発表された寺田光男氏も本日夜公演の舞台で挨拶をされるということです。」
モニタに映った寺田氏の近影を見て衝撃を受けた。
80近いというのに信じられないくらい若く見える。
ひとまわりほど若いはずの自分と変わらない容姿だ。
確かに昔から健康には気を遣う人だったが、
やはり再生治療を受けられる富裕層は違う。
しかし昔からそうだが不思議とこの人にはやっかみを感じない。
かつての自分をあれほど幸せにしてくれた「娘。」及びハロプロの創始者であるし、
飲食事業の失敗やカミングアウト騒動、引退後の離婚訴訟など、
彼の栄光と挫折をよく知っているからだ。
一連の騒動から随分時間が経ち、
最近ではめっきり公の場に姿を現すことは無くなったが、
どうしてまだまだ元気そうだ。
そんな寺田氏の映像を見て、私の頭の中で何かのスイッチが入る音がした。
そして車内アナウンスが流れた。「トゥギワナカノォ、トゥギワナカノォォオ」
気がつけば私は中野の劇場前広場に立っていた。
推しメンカラーに設定した光学つなぎスーツを着た若いファンがスーツの輝度を調節している。
オフィシャル・ホログラムを投影して振りの練習をしているグループ。
ファンの様子も昔とは様変わりしている。
私と同年代と思われる者もいるが、大抵は孫を連れている。
醜く年老い、
長い孤独がもたらす独特の雰囲気を身に纏った自分は甚だしく場違いな存在だった。
得も言われぬ寂しさと寄る辺無さに襲われ踵を返して駅に戻ろうとしたとき、
一人の男に目がとまった。
植え込みの縁石に座る老人。
私よりもかなり年配に見える、といっても単なる医療環境の違いかも知れないが。
もし見た目通りの歳なら相当の古参ファンだろう。
彼が着ているのは光学スーツでも、有機Tシャツでもない。
色褪せてボロボロになった法被だった。
背中には「安倍なつみ」の文字。
この広場を埋める若いファンの一体どれだけが安倍なつみを知っているのだろう。
歴代メンバーの総数が100人を超えた時点で、
過去メンまで押さえた箱推しDDは絶滅したはずだ。
しかし彼女こそは私の最初の推しメンだった。
彼女の卒業後も私は「娘。」ファンであり続けたが、
自分にとっての「娘。」の原イメージは安倍なつみであったし、
新しいエースが出てくる度に安倍なつみの影を見出そうとしたものだった。
法被の背中の色褪せたなっちの笑顔を見ている内に私は泣いていた。
嬉し泣きではない、悲しい涙でもない。
どう言えばいいのか、
何十年も前に音信不通になった実の娘を街で偶然見かけたような感じとでも言おうか。
私の心の底の枯れた井戸から、
何かをとても愛おしく思う感情が突然湧き上がってきたのだ。
もう迷わず私は歩みを進めた、劇場のチケットカウンターへ。
全席完売。
私はめげなかった。
すぐにスマートデバイスでチケットデータの競売市場で価格をチェックする。
久しぶりにこんなことをしている自分が可笑しくて、ニヤニヤしてしまった。
しかし、
自分が現場に参戦していた頃と比べて相場が高騰していることに愕然とすることになった。
僅かばかりの年金でギリギリの暮らしをしている自分に払える額ではない。
5階の糞席でさえ私の1ヶ月分の医療費に相当する。
やっぱりダメか…
諦めかけた私の目に一つのチケットデータがとまった。【 2階 シニア席 ペアシートG席 即決 入札数0 要シニア医療ID 】
私はシニア席というものがあるのを知らなかった。
少なくとも私がファンを辞めた頃にはそんなカテゴリーは無かった。
おそらく他の普通の劇場のように2階の両サイドに
ディスエイブル向けの小さいスペースを確保してあるのだろう。
要シニア医療IDなので一般席に比べれば幾らか手頃な即決価格だが、
ペアチケットなので一枚無駄になってしまう。
開場時間間近で入札数0。
落とせる。
迷う。
これは文字通り自殺行為のように思えた。
私のクレジット口座からこの額を一回で引き落とせば、
手術費用はおろか延命用ジェネリック薬の代金すら払えなくなってしまう。
デバイス画面の端に昼公演を見た人のコメントが流れてきた。「サプライズで29期OG登場 ( ´ノД`) P発言夜公演別のOGゲストあるかも」
私は入札をタップした。
即時に私の口座から落札金額が引き落とされ、チケットデータのダウンロードが始まった。
私は呆然とゲージが徐々に進んでいるのを見つめていた。「私はなんて馬鹿なことをしたんだろう」
ダウンロードが完了した後も私はその場からしばらく動けなかった。
しかし自動再生されたチケットのガイダンス動画を見て、小躍りした。
なんとシニア席のG席は2階中央最前だったのだ。
いい年をして懲りないと言われるかも知れないが、
自分の衝動的な愚行を正当化してくれるような気がして少し救われた。「もう先のことなんて知ったことか。これは冥土の土産だ」
実際そんな気分だった。
興奮した頭を冷やそうと広場に面した劇場付属のカフェでアイス抹茶ラテを買った。
カップにはイラスト化された歴代のハロメンが10人ほど描かれていた。
私に判別できたのは熊井ちゃんと愛理くらいだったが。Q.このメンバーたちの共通点は何でしょう?
(答えはカップの底に書いてあります。空カップはゴミ箱へ!)どうやら事務所の運営も昔より格段と洗練されたようだ。
こういう細かいところまで気を配っていればこそ、
新しいファンを獲得し続けられたのだろう。
抹茶ラテを飲み干してカップの底の答えを読み取ろうとした時、
先刻の老人が再び目にとまった。
さっきと全く同じ場所に全く同じ格好で座っている。
まさに地蔵のように微動だにしていない。
私は席を立ち上がり、気がつくと彼に話しかけていた。「こんにちは、夜公演に入られるんですか?」
彼は幽霊でも見たかのような心底びっくりした表情をした。
まるでもう何年も誰かに話しかけられたことなど無かったかのように。
大分間が開いた後彼は微かに笑みを浮かべて首を横に振った。「昼公演はご覧になったんですか?」
彼はまた首を振った。
私は思いきって言ってみた。「ペアチケットが一席分余ってるんです。よかったら差し上げます」
と言ってデータ送信をするジェスチャーをした。
永遠と思えるほど長い間があった後、
彼は困った顔をして何かジェスチャーで返してきた。
しばらく訳の分からないやりとりをした後、どうやら彼は喋ることが不自由で、
しかもデバイスを何も持っていないと言いたいらしいことが判った。
デバイスを何も持っていないというのは驚きだったが、
彼は古いカード式の医療IDを持っていたので、
私は半ば強引に彼を立たせて一緒に入場することにした。
普段は押しの弱い私だが、
「娘。」のこととなると急に積極的になるのも懐かしい感覚だった。
法被老人はほとんど表情が無く、私の申し出に特に感謝している風でも無かった。
別に涙して握手を求められると期待していた訳ではなかったが、
私の当面の治療費と引き替えに手に入れたチケットなので、拍子抜けした感じは正直あった。
しかし、どうせ無駄になるペアチケット一人分。
それに彼は昔の私と同じメンバーを推していたようだから、これでよかったのだ。
入場ゲートの金属探知機が連れの法被老人に大袈裟に反応したが、
体内に医療機器を埋め込んでいることが医療IDで証明されて事無きを得た。
彼がずっと無言なので間が持たず、つい聞いてしまった。「なっち推しだったんですか?」
老人は無表情のまま「なっ…ち、に…会いに、来た…」と呟いた。
この老人は少々ボケているのかも知れないな、と思い始めた。
昼公演のサプライズ・ゲストでさえ29期メンだったという事を考えると、
よしんばオリメンが出てきたところで観客が微妙な空気になるのは確実だろう。
まぁいい、
何の奇縁か化石のようななっち推しの老人二人がこの記念すべき公演に参戦するのだ。
場違いだとしてもいいじゃないか。
誰からも忘れられた存在である我々が、確かにこの場にいるのだ。
2階入場口の電波遮蔽バリアーを抜けた私は思わず我が目を疑った。
なんと二階全体がシニア席だったのだ。
二階席を埋め尽くす年老いたファンの大軍。
みな色とりどりのヲタTを着ている。
今はもういないメンバーのTシャツを着た者、
現メンの有機Tを着た猛者、
そこにあるのは昔懐かしいコンサ会場の情景だった。
何も変わらない。
ヲタだけが歳をとっている。
しかし彼らの顔に表れた開演前の高揚感、瞳に宿る興奮はあの頃と同じだ。
私は驚きと喜びのあまり、同意を求めて法被老人を振り返った。
彼はとても落ち着いた穏やかな笑顔を見せていた。
まるで懐かしの我が家に帰って来たかのように。
シートのリーダーにチケットデータを読み取らせ、席に着いた。
こんな良席はいつ以来だろう?
私は浮かれモードを抑えられず、身を乗り出して一階席を見下ろした。
さすがに一階の情景は昔とは似ても似つかない。
見たこともないような応援グッズやファッションの若者で埋め尽くされている。
しかしそれが面白くて飽きずに眺めていた。
一瞬その中に知った顔を見た気がしたが、それが気のせいだと言うことは分かっている。
彼は5年前に死んだのだから。
客電が落ちると、鈍い起動音とともに2階席全体が遮音フィールドに包まれた。
どうやら音量を少し絞ってくれるようだ。
後ろを振り返ると見事に全員着席している。
まぁ、さすがにそうだろう。
ついに開演、オープニング曲が始まった。
全く聞いたことのない曲で、巨大ヴィジョンに映される現メンも誰一人として知らない。
しかしどこか私の知っているあの頃の「娘。」の面影がある。
最新テクノロジーを駆使した舞台セットや衣装は全く違うが、
曲調に初代Pのテイストが、振付に「娘。」の伝統が脈々と受け継がれている。
コンサートも中盤に差し掛かったとき、やっと馴染みのあるイントロが流れた。
『好きな先輩』
34期のお披露目のようだ。
2階席のそこかしこから啜り泣きが聞こえる。
見るのが怖くて振り返らなかったが、気持ちは私も一緒だ。
MCコーナーが始まり、現プロデューサーが登場した。
流暢な日本語で誕生50周年の記念すべき時にPでいられる喜びと責任を述べ、
満場の喝采をもらっていた。
そしてついに初代プロデューサーの登場だ。
現Pの少々芝居がかった紹介の後、舞台上手から車椅子に乗ってゆっくり登場した。
万雷の拍手。
意外にも一階の若いファンからも熱狂的に迎えられている。
音が絞ってあるはず二階席からでも、その歓声は耳をつんざくようだった。
二階の古参兵達も精一杯の拍手を送る。
寺田氏はニュース映像よりは、やはり年老いたように見える。
品のいい老婦人に車椅子を押してもらっているが、あれは誰だろう。
氏は離婚以来女性とは再婚していないはずだが。
突然すぐ後ろの席から上がったコールを聞いて、私は気付かなかった自分を恥じた。「ゆうこ!ゆうこ!ゆうこ!ゆうこ!」
そうだ、ヴィジョンに映し出されたその老婦人は間違いなく初代リーダー中澤裕子だ。
彼女の姿を見るのは何年ぶりだろう。
芸能界を去ってもう大分経つはずだ。
チケットを買った甲斐はあった。
私は心の底からそう思った。
彼女は私が応援し始めた頃の「娘。」を体現する人だ。
隣の法被老人を見ると、彼も嬉しそうに一生懸命手を叩いていた。
二階席の老兵達は皆何とも言えない感極まった表情をしていた。
無慈悲な照明に晒されたその皺の刻まれた顔は、しかし不思議と若く見えた。「もう死んでもいい」
そんな思いが私の胸をよぎった。
寺田氏のスピーチは思いのほか彼の老いを感じさせるもので、少し寂しい気もしたが、
紫綬褒章受章を喜ぶ得意気な彼の笑顔を見ていると、
まるで自分のことのように私も嬉しくなってしまうのだった。
中澤姐さんのスピーチは短いながらも初代リーダーの威厳を感じさせる立派なものだった。
しかし最後に彼女は妙なこと言い出した。「おそらく私がこの劇場の舞台にこうして立たせて頂くのはこれで最後でしょう。皆さん、私の最後の我が儘を聞いてもらっても良いでしょうか?」
ファンの歓声に気をよくした彼女は続けた。
「私の大切な、大切な仲間達をここに呼ばせて下さい!よろしいでしょうか-?」
私は固唾をのんだ。
2階席全体が過度の期待と失望への恐れで一瞬凍り付いたように感じた。
舞台上に続々と歴代OG達が姿を現した。
ごく最近の卒業メンバーから始まり、徐々に時を遡っていく。
25期、24期、22期、21期、19期、17期、16期、15期、
心臓発作で倒れる者が出るのではないかと、心配になって思わず周りを確認してしまった。
所々に配置された劇場スタッフも心なしか緊張の面持ちだ。
そして遂に私がファンだった時代のメンバーが登場した。
もちろん全員では無い。
不幸にも鬼籍に入ってしまった者もいるし、
海外在住の者、事務所とのトラブルで戻ってこれない者もいる。
決して完璧ではないが、
「娘。」の記念すべき公演に万難を排して馳せ参じたOG達だった。
14期、13期、栄光の12期、11期、10期、中興の9期。
そしてなんと8期が全員揃っているではないか!
この時勢に日本に来ることは決して簡単なことでは無かっただろうに。
7期はやはり無理だったか…
偉大なる6期、伝説の5期、そして黄金の4期。
次々と登場する私の「娘。」達。
私の心拍数も危険なまでに早まった。
電波遮蔽バリアーが無ければ、
私の身体に埋め込んだオブザーバ・チップから発信された危険信号が、
かかりつけ医に届いてしまったことだろう。
そして、ついに、初期メンたちが舞台に現れた。
まりっぺ、圭ちゃん、カオリン、そして……なっち
永遠とも思える一瞬だった。
舞台上に彼女がいる。
どれほど歳を取っても、幾度も悪いニュースを聞いても、
変わらず私が全身全霊を捧げた彼女がそこにいる。
彼女の姿を直に見るのは実に30年ぶりだ。
容色の変化は如何ともし難いが、彼女の雰囲気、口調は笑えるくらい昔と変わっていない。
ややトーンダウンした一階席と対照的に二階席の盛り上がりは尋常ではない。
冷酷な時の荒波に耐え抜いた絆がそこにはあった。
このときの2階席全体を覆った恍惚感を表現する言葉を私は知らない。
きっと中には推しが登場しなかった者もいただろう。
しかし、舞台上にあのころの「娘。」がいる。
それだけでも充分すぎる僥倖だった。大音量のイントロが鳴り響く。
私の周囲から悲鳴にも似た呻きがあがる。
言葉にならない嗚咽。
長年聞かされてきた迷信が現実となる瞬間。
この夜、この劇場に集まった3千人近い観衆が全員知っていて盛り上がる曲は、
やはりこれしかなかったのだろう。『LOVEマシーン』
私は横の法被老人が卒倒でもしてやしないかと心配したが、
むしろ彼は先ほど迄とはまるで別人のような活き活きとした表情を見せていた。
なっちの登場が彼の生命の火を再び燃え上がらせたかのようだ。
それにしても彼はどうやって、なっちの登場を事前に知ったのだろうか。
デバイスも無いというのに。
歴代メンバー揃ってのラブマは壮観だった。
さすがにマイクで歌ったり、振りこそしないものの、
体を揺らして楽しそうにしている舞台上の初期メンを見るのは至福の時だった。
本当にこのままここで死んでしまいたいと思った。
病気や苦しい生活のことなど忘れて、
この多幸感に包まれたまま私もこの世から卒業したい…なっちを見つめながら…
寺田氏とOGが捌けた後のステージは正直よく覚えていない。
50周年記念の150枚目のシングルはかすかに、
かつての寺田氏のディスコ路線を彷彿とさせる出来だったことぐらいしか印象はない。
いつの間にかアンコールも終わり、
客電が魂の抜けた様にぐったりした私を容赦なく照らした。
一階席の若いファンたちはそそくさと光学スーツを消して、素早く出口に向かっている。
半裸で汗を拭く姿も、デオドラントスプレーの煙も今は無い。
分かっている。
我々の時代はとうに過ぎ去ったのだ。
今宵のLOVEマシーンはうたかたの夢。
去りゆく老兵に与えられた最後の餞。
横の法被老人はすっかりエネルギーを使い果たしたのか、
膝に腕をついて下を向いて、苦しそうに背中で息をしている。
無理もない、私でさえ命の危険を感じるほどの興奮だったのだから。
そのとき、俄に二階席の奥で誰かが大声で叫びだした。
最初それが何だか思い出せず、みなキョトンとしていたが、
思い出した者から次々と参加しはじめ、最後は私も加わって大きなコールとなった。「むすーーめ、最高!」
「むすーーめ、最高!」
「むすーーめ、最高!」帰りかけていた一階席の若いファン達は何が起こったのかと不思議そうに見上げている。
二階席のジジィたちが何か変なことやってるぞとでも言いたげに笑っている者もいる。
しかし、最初は聞き取りずらかった我々のコールを次第に彼らも理解してくれ、
最後には会場全体を包む大コールとなった。
みんなが笑っていた、あるいは泣いていた。
50年前、いちローカル局のバラエティ番組の企画から生まれたモーニング娘。は大勢の予想に反して一躍スターダムに上り詰めた。
その後も何度も解散、消滅の危機を乗り越え、とうとう今日、歌舞伎、宝塚と並ぶ日本の国民的舞台芸術の一角を占めるようになった。
寺田氏は日本歌謡史上の重要人物だとする評価が定着して久しい。
彼の発明したメンバーの入れ替えが常態化したアイドルグループと言うコンセプトは
日本文化の伝統に則った革新的なアイデアとして世界中に支持者を獲得するに至った。
フランスの文人で政治家のアンドレ・マルローはかつて日本文化を評して言った。『日本人は絶えず刷新、変容することで永遠を手に入れた。日本人はそのことを理解している希有な民族だ。』
若き者、年老いた者、男と女、日本人、外国人、この50年という長い間に
「娘。」という唯一の絆の元に交錯していった無数の魂たち。
そのほとんどの魂は今宵ここ中野には来れなかった。
だが、彼らの魂を代表して私は、いや我々はここにいる。
死すべき運命のちっぽけな人間が「娘。ヲタ」という仮の姿を纏い、
情熱のリレーを繋いでいくことで、我々の魂は永遠になったのだ。
モーニング娘。が存続する限り我々の魂も永遠に生き続けるのだ。
どうやら、会場の熱気に当てられたようだ。
老体に若者の熱情は毒だというのに。
私は興奮を鎮めようと、しばらく席を離れなかった。
法被老人もよほど疲れたのだろう、隣でぐったり席に沈み込んでいた。
シニア席の客もほぼ捌けた頃、私はようやく席を立った。
いくら声をかけても返事をしない法被の老人を置いて私は会場を後にした。
冷たい夜風が病身に沁みる。
地元の駅から家路をたどる道すがら、
私は有り金のほとんどをチケット代に使ってしまったことを思い、陶然としていた。
後悔はしていない。
後悔はしていないが、
これからどうすべきかを思うと暗澹たる思いに押し潰されそうだった。
医療が受けられなければ、このまま苦しみのたうちまわって死ぬのを待つしかない。
それが自分で選んだ人生なのだ。
そして幸か不幸か私は自分の選択を悔いることが出来ない。
確かにもう少し利口な生き方もあったかも知れないが。
すっかり暗い面持ちで部屋に戻った私は、バッグを開けて今日処方された薬を探した。
するとバッグの中に見覚えのないものが入っていた。
いや見覚えはあるが、そこにあるはずのない物。
無造作に丸まったなっちのマイクロ・ファイバー・タオル。
色褪せた、少しカビの臭いがする、お世辞にも綺麗とは言えない代物だ。
私は当惑した。
確かに自分は昔このタオルを持っていたが、最後に参加したFCツアーで
ヲタ卒するケジメとして同部屋だった人にプレゼントしたはずだ。
なっちに直にサインしてもらった宝物だったので、
人にあげてしまったことを後で何度も後悔したので間違いない。
戸惑いつつ、丸まったタオルを広げてみると、何かが重たい音を立てて床に落ちた。
札束が10個。
1千万円はありそうだ。
そしてタオルには見覚えのあるなっちのサイン。
頭の中で、全ての記憶と目の前の事実が音を立てて一点に収束した。
私は全てを理解した。
あの法被老人が私のバッグにこれを忍ばせたのだ。
そしてあの老人こそが私がタオルをあげたあの無口なヲタだったのだ。
一体あれから彼に何があったのか?
私よりもずっと若そうだったのに。
冗談めかして言った言葉が記憶の深海から急浮上して来た。「ホントだったら1千万積まれても手放したくないんですよ~」
彼は私の軽口を真に受けたのだろうか?
そんなことが?
いずれにしろ彼は今日私が声をかけた瞬間に私が誰だか判ったのだろう。
もしかして私に代金を渡そうと、コンサートの度に私を探していたのだろうか?
私はあれ以来30年も現場からは遠ざかっていたというのに?
遠い昔の自分の何気ない行為が、亡霊のように突然姿を現したことに私は戦慄を覚えた。
叱責するような響きの電話のビープ音が鳴り、私はビクッとした。
警察からだった。
警察は中野のハロプロ東京劇場で今晩発見された男性遺体と私の関係を問いただし、
私は余ったチケットを見ず知らずの彼にあげたことを簡潔に説明した。
警察は彼の医療データを把握しているようで、
自然死と判断されたとの事なので出頭は求められなかった。
身寄りが確認できないので遺体は警察が処理するそうだ。
金のことは黙っておいた。
彼は自分の死期が近いのを知っていたのだろう。
何かを私に託したかったのだろうか?
生き続けて「娘。」を応援しろと?
都合の良すぎる解釈かも知れない。
だが、彼の真意が分かる日は永遠に来ないだろう。
疲弊し、混乱しきった私は合成ビール一缶で意識を失った。
翌日私は手術の申し込みをした。そして30年ぶりにファンクラブに加入した。
見逃した30年の空白を埋めるべく、
膨大なHD映像アーカイブにアクセスできるスーパーエグゼクティブ会員だ。
私はまだ死ねない。




